「ビルマ、パゴダの影で」を見て

毎年開催の「今、平和かな?」を開催。

今回は、映画『ビルマ、パゴダの影で』上映と、シャンティ国際ボランティア会の小野豪大さんによる「ミャンマー(ビルマ)の図書館作り」についての講演会を行ないました。

参加者に感想を寄稿していただきました。
以下に掲載します。
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人間はなぜ何度も同じ間違いをくりかえすのだろうか。
権力による虐殺の歴史は何度も何度も繰り返されてきた。神話の時代から。
そうでなくても、ビルマのすぐとなり、カンボジアで行われたポルポトによる虐殺がどれほどあの国の歴史を後退させたかは記憶に新しいところだ。それなのにまた繰り返す。
しかし、その国に暮らす人はのがれようもなく、逃げまどい、あるいは武器をとる。恐ろしい不毛だ。
もういい加減にしよう。と外から眺めるわたしは思う。
しかし、何ごともなかったかのようにわたしの日常は過ぎ、かの地では子どもに麻薬をつかって銃をもたせている。
いい加減にしなければならない。
そしてそれがこれだけ繰り返されてきたということは、人の倫理に期待してもムダだということだ。
つまりこれは人類がもつ資源の分配の問題なのだ。ヒューマニズムの問題ではない。智恵の問題なのだ。
映画は一方で、ヒューマニズムに訴えていた。
映画は同時にヒューマニズムの限界をしめしていたとおもう。
美しい自然。
いたいけな子ども。
おそろしいほどの静謐の表情。
それをこんな小さな子どもがするのか。
そこに対するのは圧倒的な諦め。
銘記しよう。たしかに平和は平和を望む心に発するだろう。
しかし、平和を望む心だけでは平和にはならないのだ。
人間ならばだれでも平和を望む。
それなら平和は容易いはずだ。
しかし、そうはならないことが、心だけは足りないことを明瞭にしめしている。
「なにを/だれが/どのように」この分配を解決し、それをすべての人と共有する術を。その智恵がなければ、あの子どもたちが子どもらしい表情をとりもどすことはない。
外部にいるわたしたちは豊かに暮らしている。しかし、かれらと同様に、智恵をもっていないことを自覚しよう。
学ばねばならない。そして考え合わねばならない。
愛だけでは解決しない。愛ある智恵がなければね。

            蟻の兵隊を観る会/竹薮みさえ