【市民政治のバトンをつなげて】
シリーズ【市民政治のバトンをつなげて】次は10代目代理人の石田裕子さんです。
1,代理人(市議会議員)になったきっかけは?
「“はい。卵あげる。”で、即加入」
長男を妊娠して、夫が育った田無市に来て、初めて声をかけてくれたのがご近所のおばちゃんでした。「M君のお嫁さんよぉ〜」と紹介されて、「木曜日に産まれた卵よ」と手渡されて即、生活クラブに加入。食べ物の美味しいことはもちろん、大きなお腹を抱えて知らない町に引っ越してきた私にとっては、何より孤独から解消されたことが嬉しかった。そう、「ひとりにしない、子育て」ですよ。その2年後に何がなんだかわからないままに引き受けた支部委員会に前年度支部委員の渡辺嘉津子さん(田無市で初めてのネットの代理人)がいました。渡辺さんの選挙でウグイスをして、即、ネットメンバーになりました。
「子育ての中で子どもの権利条約に出会う」
メンバーや知り合いが順番に代理人となっていくのを見ながら、3人の子ども達を育てつつ、PTA会長をしたり青少年育成会の役員をしたりしていました。長男は勉強ができず、いじめられっ子で、親として大変な思いをしました。また、そのおっとりした息子の友人に課題を持つ子がたくさんいたことや、生活者ネットを通して子どもの権利条約を学んだことで「子ども支援」のことを考えるようになりました。
擁立が決まった時に「あなたは議会で何をしたいの?」とメンバーに聞かれ「票を持たない(選挙権がない)子ども達の代弁者になりたい」と言ったことを覚えています。
2,代理人(市議会議員)時代の思い出は?
「絶対やらせねーよ、と言われたけど」
「最初の議会では、この四年間で自分がやることを言うのよ」と、先輩議員の森下典子さんに言われていました。緊張しながら登壇し「子どもの権利条例をつくります」と言った瞬間、目の前に座っている自民党議員の男性に「絶対やらせねーよ!」と大声でやじられました。びっくりして、声がうわずったまま最初の登壇を終えました。
「全員が賛成してできた子ども条例」
紆余曲折があったものの、西東京市に「子ども条例」ができました。すでに私は議員は引退していましたが、本会議で議員全員が賛成と手を挙げる姿をこの目で見たくて、傍聴に行きました。生活者ネットの加藤涼子議員をはじめ、何人かの議員が賛成討論をするのを聞いて、嬉し涙が止まらなくなりました。もちろん、私をやじった議員さんも手を挙げてくれてましたよ(笑)
3,現在は、どんなことをやっていますか?
市内で、子ども食堂を二ヶ所やっています。
一つは市内で初めてできた子ども食堂の「西東京わいわいネット」で事務局長。もう一つは、我が家のそばで「放課後キッチン・ごろごろ」と言う子ども食堂をしています。
また2022年の春からは、西東京・生活者ネットワークの事務局長です。
4,代理人(市議会議員)であったことが、現在にどうつながっていますか?
議員になる前も、PTAなどで「子ども支援」の視点で活動をしていて、代理人(議員)になったら、議会で子どもの権利条例を提案したり、貧困のことで質問したりしていました。
議員を終わる頃に、議員室に貼っていた子ども食堂の新聞記事が写真に残っています。議員の後は、「子どもの貧困」に取り組みたいと、引退の挨拶で言いました。
その後、公民館の連続講座を受けた仲間達と子ども食堂を始めることになり、市内で初めての子ども食堂誕生に関わることができました。第一回目のあと、子ども達が参加してくれた嬉しさに手作りの新聞を作りましたよ。
議会活動の中では、自分の主張を通すために、どうやっていくとうまく行くかを学んだと思っています。東京全体に33の生活者ネットがあるので、他のネット議員の活動もとても参考になりました。たくさん調査して勉強もすごくしました。子ども食堂も、すでに始めていた練馬区や杉並区、調布市や府中市など視察に行って勉強しました。今、立ち上げた子ども食堂には、色々な立場の人が応援してくれています。また、私が別の子ども食堂のサポートすることもあるし、大学生の卒論執筆に付き合ってインタビューを受けたりもします。私の話を身を乗り出して聞いてくれた男子学生さんが何年か越しで市内で別の子ども食堂を開いた時には、とても感動しました。
「意志あるところに道は開ける。」実直に、誠実に、正直に、やりたいことを言い続け、陰日向なく活動することが、人の心を動かす、と信じています。
「子ども食堂は、私のライフワークなのよ」とおっしゃる石田さん。代理人になる前から「子どもへの支援」に携わってらした石田さん。明るく笑うその姿は「みんなのお母さん」そのものです。身体に気をつけてこれからも「みんなのお母さん」でいて下さいね。