初代代理人 故坪井照子氏によせて

西東京・生活者ネットワークの初代代理人坪井照子さんが9月23日に91歳で亡くなられました。

2月に転倒し大腿骨骨折。入院し手術、リハビリに取り組みましたが、片麻痺を発症、全介助の状態になり、食事がとれなくなるなどの全身状態の悪化が進みました。
坪井さんは生活クラブの仲間とともにビン・缶の分別や古紙回収に取り組み、「混ぜればごみ、分ければ資源」をテーマに市議会議員選挙に挑戦、1983年初代の代理人になりました。議員を辞めてからも仲間とリサイクルショップを開店したり、生ごみのたい肥化に取り組んだり、海外の先進事例の見学に行ったりと、ごみ問題に長く取り組んできました。彼女の存在は、西東京ネット会員のみならず、市民政治やゴミや環境問題に取り組んでいる市内の人たちにとってパイオニア的な存在でした。
西東京・生活者ネットワークは、坪井照子さんの遺志を引き継ぎ、これからも多くの仲間とともに代理人運動を推進していきます。

市民政治のバトンをつなげて~それはゴミ問題からはじまった~ 初代代理人坪井照子さん | 西東京・生活者ネットワーク (seikatsusha.me)

 

坪井さん逝去にあたり、坪井さんと一緒に活動してこられた西東京ネット会員より追悼文をいただきましたので掲載いたします。

私にとって坪井さんは大先輩であり、今では死語?の「同士」でした。坪井さんは、生涯ぶれる事なくゴミ問題と環境問題に取り組んだ人でした。
坪井さんを先頭に旧保谷市役所の前の生活クラブセンターで、ビン・カンの分別を行いながら、行政に対して「混ぜればゴミ」「分ければ資源」と分別収集を請願、陳情し続けましたが、受け入れられません。それではと、まちづくりの決定の場の議会に私たちの西東京(旧保谷市)の初代代理人として坪井さんを送り出しました。
坪井さんは、「主権者は市民だ」「議員は市民の代理人」「政治は生活の道具」という事を身を持って実践してくれました。40年前の事です。当時坪井さんから、男性議員から「ゴミや食べ物など、女、子どもの言う様な事を議会に持ち込むな」と言われたと聞きました。そんな時代でしたので大変な決意だったと思います。しかし、今では「混ぜればゴミ」「分ければ資源」は清掃車に書かれています。坪井さんが勇気を出して、はじめの一歩を踏み出してくれた活動は引き継がれ、少しずつですが実現しています。
晩年、一人暮らしの坪井さんを頻繁に訪ねてお世話をしていた友人が「行くたびに、美紀さん元気?木々は大丈夫なの?と聞いているよ」と言われ、嬉しいやら、申し訳ないやら・・(苦笑)。施設に面会に行った時は、笑顔で「来たの」と帰る時は「気をつけてね」と気遣ってくれました。私は出来の悪い、娘か妹だったのかもしれません。
坪井さんのお葬儀で、頭の白くなった仲間たちの後ろ姿を見ながら、舞台は代わって行くのだなと思いながらも、当時よりも厳しい社会情勢の中、坪井さんの意思を継ぎ、出来る事を仲間たちとやっていきます。坪井さん、空から応援してください。 合掌(S.Mさん)

80歳を過ぎてもこれまでと変わらず若々しくお元気で、集会などでお会いするたびに「この方は年を取るのを忘れているのでは」と思わせるお姿でした。人との出会いがあれば、いつかは別れの時が来る、と知りながら、突然の坪井さんとのお別れは寂しく、残念でなりません。私が坪井さんに初めてお会いしたのは確か30年程前だと思います。
1989年夏に夫の転勤で福岡から東京に引っ越したその年、添加物やせっけんにこだわる生活クラブ生協田無支部に加入しました。それからしばらくして、保谷方面で環境問題の学習会があると聞き参加しました。その時に発言していたのが坪井さんでした。「混ぜればごみ、分ければ資源、だから資源循環の社会システムを市議会に提案してきた。市民の古紙回収などの実践からの提案だった」との趣旨の発言に、『市議会議員と市民がともに問題解決に力を出し合う』という実践力に心を揺さぶられたことを思い出します。その時、知ったのは、保谷地域では“政治を生活を良くする道具”として使おうと、女性たちが政治団体「生活者ネットワーク」を立ち上げ、市民の代弁者として議員(代理人)を議会に送り出す活動をしているということでした。その初代の議員が坪井さんであることも知りました。
その後、生活クラブ田無支部でも、安全な食べ物や環境問題などの市民活動をしていた仲間たちとともに「田無生活者ネットワーク」を立ち上げました。2001年の両市の合併を機に生活者ネットも合併し、坪井さんと共に活動することになり、様々なことを学ぶことができました。市議会議員を辞めた後の坪井さんは仲間と「リサイクルのお店」を開き、資源を生かす場、コミュニティの場として地域活動を展開し、議会活動で培った知識と経験を社会に還元してきました。その坪井さんの実践は多くの人が影響を受けました。西東京市では、循環型社会を目指して、リユースショップ「エコメッセ【水・緑・木・地面】」が活動を進めています。市民の力で社会を変えることができると示してくれた坪井さん。市民の自治の力を信じて今、活動している自分自身の姿は坪井さんの実践から学んだ延長線上にあると改めて感じています。坪井照子さん、ありがとうございました。(W.Kさん)

坪井さんと最初に出会ったのは、保谷市の市長選にチャレンジされていた頃。既成政党に担がれた現職に果敢に挑む「ゴミの坪井」の姿は、さながらジャンヌダルクの様でした。終始一貫して「戦う女」「曲げない女」、とても真似できない圧倒的な人生の先輩、どうか安らかに。 合掌(M.Nさん)

坪井さんが生活クラブの草分け的な代理人として立候補することになる時、私は新米の支部委員でした。その頃は班しかなかったので、いろいろな班会に説明に入りました。
「生協が政治に関わるなんて」という声の多い中、班の人の中には「政治にものを言うことは大事よ」という人もありました。
それには毎月センターの庭にビン、缶、古紙などを集めて組合員が仕分けしてゴミを減らしてきた実績があったからです。その運動の延長として市の清掃課を巻き込んで「保谷の市」という大型家具まで含めたゴミ減量の大きな行事を何年か開きました。そして坪井さんが市議会議員になって二期目の半分に当たる年に「全国初の女性市長を!」と市長選に挑戦したのです。
市長選には惜しくも敗れましたが、その勇気とゴミ問題に対する一貫した姿勢は尊敬に値します。どうぞ安らかにお休みください。(M.Mさん)

にこやかにされている坪井さんしか思い浮かびません。私が困っている時いつも「大丈夫よ」と笑顔で包んでくれました。そしてこんな風に考えたらいいと行き詰っている私に思わぬ方向への転換をさせてくれたことが何度もありました。心がホッとしたことを覚えています。もっともっとお話を聞いて、自分の活力にすべきだったと後悔しています。
生活者ネットでも、西東京市あちこちに坪井さんの痕跡を感じながら私たちも頑張っていかないと、と思っています。今まで、本当に長い間ありがとうございました。(H.Iさん)

1989年市長選に保谷市議会議員2期目の坪井照子さんが立候補、同時に鈴木美紀さんが市議会議員の補欠選挙に立候補することになりました。当時私は生活クラブ保谷いずみ支部委員長。推薦依頼を受けて臨時支部大会を開催しました。その頃の生活クラブは班として活動していて、各班が議論して臨時支部大会に臨みました。班で十分話し合いが行われた結果、支部大会では反対意見も含め多くの意見が出されましたが、議論の結果推薦が決定されました。選挙結果は坪井照子さん残念ながら落選、鈴木美紀さん当選でした。
その後も坪井さんは、地域の仲間とリサイクルショップを開いたり、堆肥づくりに取り組んだり、先進的な海外の環境問題への取り組みの視察に行ったりと活発な活動を続けました。身近なごみ問題、環境問題から多くの地域の市民、有志とつながり、市民自治社会の実現に力を尽くした坪井照子さん。充実した人生でしたよね! 坪井さんが目指した社会の実現を少しでも前進させられるように私も努力します。本当にありがとうございました。(S.Hさん)

 

坪井さんどうぞゆっくりお休みください。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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